「唐の瀬廻水路」について
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「水を制する者は国を制す」という言葉があるように、我が国において「治水」というのは
非常に重要なことであったとされています。
私の地元は久留米市なのですが、家の近くには田んぼが広がり、子どものころは水路でザリガニなんか
釣って遊んでいた記憶があります。
その水路の成り立ちなんて考えたことは無かったのですが、物にはすべて歴史がある。少し考えさせられました。
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合宿では、「唐の瀬廻水路」の見学にも連れて行っていただきました。
江戸期、筑後国が久留米藩と柳河藩に国割されたとき、矢部川を境に北が久留米藩、南が柳河藩とされた。
その矢部川の水を利用するにあたり、水争いが起こり、川を自藩に引き込む堰を互いに作りあい、
矢部川には両藩への水路が交互に並ぶ特殊な構造になったとのこと。
その一部を見学させていただきました。
筑後平野は稲作をはじめ農業の盛んな土地で、街中にもクリークが網の目のように張り巡らされており、
こうした川から引き込んだ水のおかげで、古くから生活がなりたってきました。
この水の奪い合いは自藩の繁栄に欠かせないことだったんですね。
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ところで、筑後粋鷹の今村さんからは別な視点も聞くことができました。
『この堰は争いの結果ではなく、争いを避けるためにお互いが知恵を出し合った結果ではないか。
自分のところに降った雨水は堰のおかげで自藩にのみ利用することができるという、効率的な構造になっている。』
ということでした。
確かにそうしてみると、まるっきり両藩の関係性や廻水路の意味が変わってきてしまいます。
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最近の歴史の教科書では、我々が学んできた内容とかなり変わっているという話を聞きます。
鎌倉幕府成立は1192年ではなく1185年。士農工商は実は無かったとなっているようです。
また、ニュースでも聖徳太子や坂本龍馬の記載が無くなるなど最近話題になっています。
歴史という分野は多分に研究者の主観が入り、解釈によって180°変わって見える。
そういった意味でも面白い体験でした。
(内容については記憶の薄い部分もあるので確実な情報でない場合があります。あらかじめご了承ください。)
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事務局長:河村